最後に終わらせる言葉。

七夕にバタバタ(ダジャレか?)だったファンキーシャーマンちづるです。

唐突ですが。。


今日の湧いて来た笑家(ショウカ)メッセージ。


2011年東日本大震災の直後4月の半ばに、私は石巻にボランティアに行かせてもらいました。

その時、ある女性(40代前半)の言葉が、忘れられないのです。


休憩していた私のところにフラッとやって来て、

「ボランティアありがとうございます。」ってお礼を言ってくださった後から

ぽつりと話し始めたのです。


「どこからのボランティアですか?」

「何人と来たのですか?」

最初はそんな他愛ない無難な会話でした。


ですが、だんだんと想いを吐き出すようになって来ました。


「親友と一緒に逃げ切った。」

「子供達は○○(避難所)にいるってわかったから安心している。」

でも、最後の方になると

だんだん言葉が少なくなり始め、

「主人とは連絡が取れてないんです。携帯も繋がらないし。」

その後、彼女はすっかり黙ってしまいました。


私は、別にカウンセリングするために行っていたわけじゃないのもあったけれど、つい、カンセラー氣質が発揮されたのか?

背中をトントンと軽く叩いていました。


すると、急に嗚咽をし始めて、

「私、ちゃんと謝れてなかったの。喧嘩したまま、もし(ご主人)に何かあったとしたら、どうしよう。私謝ってないのに。玄関も送り出してない、腹たったから台所から「勝手に行ってこい!」って、冷たい言葉で、あの人も怒ったままで、行かせた。どうしよう。謝れてない。」

私は彼女の悲痛な後悔に同調して、とても胸が苦しくなった。


そんな出来事。


私は肉体の命は永遠じゃないことを何度か経験させてもらっています。

クライアントさんの突然の自らの命を終わりにしたこと。

15年連れ添った愛猫を看取った時。

父の急去。

義母の急去。


その時に必ず思い出すのは


【最後、あの時、何を言った(やった)か。】

【最後、あの時、何を言われた(やってもらった)か。】


そんな私自身が身をもってそこを痛切に染み込ませている『大事にしていること』。


それは、

【自分の(相手の)最後だとして、本当にこの言葉を言いたいのか?】

ということ。


パートナーシップや家族の間では、本音を言えることって

とても、とても大切なこと。


だから、どんな私であってもいいし、

どんなあの人(伴侶や子供や親)であっていい。


だけれども、最後に締めくくる言葉。

これはとても大切だと思っている。


自分の命の価値って、最後に何をしたか(どういう思いで死ぬか)で決まると思っている。

だから、喧嘩したっていい。

本音をぶつけ合ってもいい。

傷つけあってもいい。


ただ、最後、本当の本当にちゃんと

目の前にいてくれる奇跡と、感謝が湧いてくるほどに

ちゃんと相手を見る。


言いにくくても、

「ごめんね」と伝える。

相手が許そうが、許さまいが。

まずは伝えてみよう。


最後の最後がどんな終わり方をしてもいいように。


笑って終われる命の使い方。


あの大震災の後、命のあり方、家族のあり方、自分の生き方をしっかりと根付かせたい「

何か」が生まれた。

その「何か」を見たくて立ち上げたことのある支援団体。

でも、実は支援もとても大切だけれども「毎日の日常」がとても大切だということに氣がついた今。

日常(半径3メートルを大切にする)ことが一番だど氣がついた10年。

 


あなたが今日も笑って過ごせることをお祈りしております。

どんな私も笑って過ごせるために。

かんながら たまちはえませ

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