一緒に楽しめる人

あと3年もすれば60歳のこの2人。
まぁまぁイケてるかしらん?

 
私たちの仲良しの秘訣は
ただ、ただ
自分ごととして伴侶のことも考えながら、いつも行動をしたり、決め事をしている…ということかな?
確かに2人の価値観が合わないところもある。
そこは隠さない。
でも、無理に合わせようとも「いまは」しない。
出会った当初はお互いがお互いの顔色を見て、氣づかいすぎあっていたこともある。
 
でも、いまはたくさんの色んなことを経て、
相手の大切なものは大切にしてもらいたいと心から思っている。
そこを尊重しながらも、
合わない価値観をどう【観ていくか】を
まあまあ丁寧に2人とも【対話】してきた。
暗くて、重くて、つまらないことだって
丁寧に、諦めることなく対話してきた。
泣きながら伴侶の目を観て伝えあうこともある。
それほどに、わからないことだって私たちにもある。
だけど、私たちはそこすらを【楽しんでいる】ところがある。
ま、ヘンタイかな?笑。
2人で無垢な子供のようにはしゃげるのは、
全てを隠さず見せ合っているから。
そこにトキメクような恋のような刺激は少ないのかもしれない。
けれど、どんな彼でも、どんな私でも、
ちゃんと堂々と見せ合って、
認めにくくても
やっぱり大切な存在だから、
認めてあげたくて
だから、ちゃんと相手の伝えたいことをしっかりと聞こうとする。
相手のやりたいことをやらせてあげたくなる。
【伴侶】という言葉が大好きな理由。
呂という文字は背骨の象形文字。
脊髄の骨(背骨)が連なるさまを表している。
自分の半分の人。
脊髄(背骨)のように自分の生きるために重要となる人。
パートナーという言葉では少し物足りないような人。
多分、この人がこの世からいなくなっても私は生きていくだろう。
でも、もう生きていく甲斐はなくなるかもしれないなぁと思ってしまうほどに
伴侶として、私は大切に思えてしまっている。
これは依存なのだろうか?
そうでもあり、そうでもなし。
しんどいことだってある。
見たくないことだってある。
でも、それは全て【自分の内側の投影】。
だから楽しめる。
伴侶というスクリーンに映り込んだ私を眺めるかのごとく楽しめる。
まだ見ぬ私と出会わせてくれる人。
この人を愛している、と深いところで感じるたびに
自分のことも愛おしくなる。
私はこの人のために笑おう。
私は自分のために笑おう。
笑って生きよう。
楽しんで生きよう。
そう改めて思う夜。

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